確かな道について 「眠られぬ夜のために」7月14日
ただそれを受け入れて、実行すればよい。
「眠られぬ夜のために」 7月14日より
この道を進めばよい、そう確信できることは、なんと素晴らしいことだろう。人は迷う。本当にこの道でいいのか。あっちの道のほうがいいのではないのか? こちらの道は破滅に通じているのでは?
しかし、神に示された道のみが唯一迷うことなく選ぶことができるのだ。何かが起これば甘んじて受け入れ、足りないものがあれば「今は必要のないということだ」と納得し、ただ進めばいい。
聖書からの引用
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」」
マタイによる福音書 6:33-34 新共同訳
https://www.bible.com/1819/mat.6.33-34.新共同訳
「それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、」
ルカによる福音書 22:35 新共同訳
https://www.bible.com/1819/luk.22.35.新共同訳
仕事について 「眠られぬ夜のために」7月13日
どんなに大きな仕事であっても、それを細かに分けて、いつも手近なものだけを眼中に置くならば、それは小さな仕事をするのと同じになる。
「眠られぬ夜のために」 7月13日より
今日の言葉は短い。上の引用がそのまま、今日の言葉すべてである。
自分には可能とは思えない仕事は避けるようにしている。失敗が怖いからである。失敗が怖いのは、自分に能力が無いことを周りに知られることと、自分で自分の無能力を自覚することになる、これのどちらも嫌なのだろう。
小さい仕事に分けるのも苦手である。小さい仕事に分けるには、全体像の把握の「鳥の目」と、何が必要か細かい視点で見る「虫の目」のどちらも必要なので、私のようなものには結構ハードルが高い。一般的に「小さな仕事に分ける」は比較的よく聞く仕事術であるのだが。
しかし、今日の言葉は何だかタスク管理術みたいである。
人生の目標について 「眠られぬ夜のために」7月12日
我々は人生を立派なものにすることができる。
「眠られぬ夜のために」 7月12日より
私たちの目標は、気高く自由な人間になることだという。そこに達するためならいかなる苦難も乗り越えることができるだろう。その高き頂上へは、近づくものを一切排除しようとする様々な難所があるからこそ、私たちはそこを乗り込えて見える景色に憧れるのかもしれない。
正しい祈りについて 「眠られぬ夜のために」7月7日
正しい祈りとは、元来それ自身神に聞き届けられている祈りである。というのは、それは、神の恵みと愛とから、われわれに贈られるものであるから。
「眠られぬ夜のために」 7月7日より
祈り、というのは人間の側から神にささげるものである。しかし、そうではなく、神が人に対して、こう祈るようにと呼びかけられているのだ。いわば私たちはいただいた祈りに対して、ありがたくも報いをいただける。
聖書からの引用
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」
ヨハネによる福音書 15:7 新共同訳
https://www.bible.com/1819/jhn.15.7.新共同訳
「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」」
ヨハネによる福音書 16:24 新共同訳
https://www.bible.com/1819/jhn.16.24.新共同訳
「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。」
イザヤ書 65:24 新共同訳
https://www.bible.com/1819/isa.65.24.新共同訳
健康について 「眠られぬ夜のために」7月2日
「眠られぬ夜のために」 ヒルティによる著作。一日一節、彼の思想が聖書の言葉とともにつづられます。題名通り、夜に聖書を横に置きながら、その日の内容を読むのがおすすめ。
7月2日
健康について
健康は疑いもなく大きな贈り物ではあるが、それをあまり重く見すぎてはいけない。むしろ、それを損なったり失ったりした場合でも、立派にそれに堪えることを学ばなければならない。
健康なことは、素晴らしいことである。しかし同時に得難いものである。では健康でなかったら善ではいれないのだろうか。善を行うのに、決して健康でなければいけない、ということはない。逆に健康であることを追い求めすぎて、大切なことをないがしろにしていないだろうか。
聖書の引用
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」
コリントの信徒への手紙二 4:16 新共同訳
https://www.bible.com/1819/2co.4.16.新共同訳
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
コリントの信徒への手紙二 7:10 新共同訳
https://www.bible.com/1819/2co.7.10.新共同訳
「わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。」
コリントの信徒への手紙二 10:10 新共同訳
https://www.bible.com/1819/2co.10.10.新共同訳
「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
コリントの信徒への手紙二 12:10 新共同訳
https://www.bible.com/1819/2co.12.10.新共同訳
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」
コロサイの信徒への手紙 1:24 新共同訳
https://www.bible.com/1819/col.1.24.新共同訳
「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。 彼は、子孫が末永く続くのを見る。 主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」
イザヤ書 53:10-11 新共同訳
https://www.bible.com/1819/isa.53.10-11.新共同訳
鬼太郎前夜ともいえる、怪異短編集「ゲゲゲの素」水木しげる
ゲゲゲの素、というタイトルが意味すること。それはなんでしょう。
鬼太郎は出てきません。鬼太郎に出てくる、悪い妖怪VS正義の妖怪というお話ではありません。これらの作品は2期の「ゲゲゲの鬼太郎」の原作となっているもので、テレビアニメとして、出てくるキャラクターに鬼太郎を加えたりしてアレンジをされたもの。だから、「ゲゲゲの素」。原作は人間の欲深さや進んだ文明に対する風刺といったもののエッセンスが凝縮されており、そう意味でも「素」なのかもしれません。
選出は、小説家の京極夏彦。11作品がバランスよく選ばれています。バランスというのは、描かれているテーマ。ゴーゴリの小説「ヴィイ」から取られた、古寺での魑魅魍魎と坊主の一夜の戦いを描いた「魍魎の巻 死人つき」から始まり、特にこれといった理由もなく、怪異に会い命を奪われる不合理な「妖怪自動車」、どこまでも膨れる人間の欲望を、卵から孵って育ち続ける化物をとおして表す「幸福という名の怪物」など。その他、物質文明への警鐘や古いしきたりを破る人間の傲慢さ、はたまた整形手術や、よく取り上げられる東南アジアでの怪異を取り上げたものなど、テーマがバラエティに富んでいて、満足できる一冊です。
表紙をめくったら、水木先生の優しい笑顔の写真と、その次の「あわてずにゆっくりやれ」という言葉が描かれているのもうれしい。
この英語、訳せない! 翻訳家ならではの苦悩がつまっています。
翻訳家って大変なんだけど、その苦労が表に出にくい、言わば「報われない」と見える職業かもしれません。もちろん、翻訳家の方自身からすればそんなこと無いと思いますので、あくまで、外から見て、そのように見えるということです。そんな風に思えるほど、一語一句吟味しながら、外国の文学を日本語の文章として移していく(再構築)していく、地道な作業なのが、この本を読むと分かります。
私たち、読む側の人間は、そんな苦労・苦悩があることを知らずに本を読ませていただいているのですが、その苦労の一旦を知ることができる、裏側をこっそり見るような面白いエピソードがたくさん載っています。
本の帯にもある「headは頭?顔?首?」や、「evening 夕方か夜か?」、『khaki 幅の広い「カーキ色」』などなど。簡単な単語でも複数の意味があり、日本語としてどのように表現するかは、その語が出てくる文章の背景や文化など、様々な事を考えて、最適な語を導き出さないといけません。「最適」というのは、原書の著者が意図した意味で、そしてそれを読む読者がその意図を感じることができることだと思います。
その作業が一冊分。もちろん作品によって分量は違いますが、分厚めの単行本で、上・中・下にも別れるようなものなら、先の見えない、果てしない作業にも思えます。
面白かったところを一つだけ挙げれば、文化の違いに関するところで、ドアの開閉について。欧米と日本では玄関のドアの開閉の向きが違います。日本は家の中からでしたら、外側に押して開けます。しかし欧米は手前に引いて開けます。close the door behind oneself という言い方はよく出てくるそうで、誤訳の例として「ドアを後ろ手に閉める」という訳し方をしてしまう。しかし欧米では先ほど書いたように、後ろ手とすると、手を後ろ向きに「押して」閉めるということになり、動作として不自然です。ただ、日本では後ろ手で「引いて」閉めることになり比較的やりやすいので、そのように訳してしまう。
私たち読者側からすれば細かい問題のように見えるところも、翻訳業の方たちは日々取り組まれていると思うと頭がさがります。このような文化の違いを考慮した翻訳は、辞書をめくるだけでは到底たどりつけないですし、昨今話題となっている機械翻訳も、特に文学に関する翻訳は、まだまだ「人」が「書いた人」と「読む人」に対して敬意や思いやりを込めて訳すことには、まだまだたどり着けないように思えます。
「ダ・ヴィンチ・コード」をはじめ、有名作品の翻訳に多く携わっている翻訳家の方が書かれているので、あなたが読んだこともある作品の裏側にも触れられいてるかもしれません。